2016年1月21日木曜日

ベガルタン、大震災関連のコメントを考える


なんでも、昨日選手たちは大震災における象徴的な場所を訪問したようですな。それを踏まえて、監督はこうコメントしています・・
我々がピッチの中で、復興のシンボルとして今一度輝くこと、躍動するということを、きっちり表現していきたいと思っています。そのためには、被災地の方々、まだまだ辛い思いをされている方々に、喜んでいただけるような結果を出すことが一番だと思いますし、勝ちにもし恵まれなかったとしても、勝利への執念であるとか、ひたむきな姿勢であるとか、そういった、人の心を動かすようなプレーを続けていかなければいけないと思っています

なるほど、模範解答的なコメントですから、このスピーチに対して「どーの、こーの」と言うつもりは全くありません。被災地のチームとして、それ付随する様々な活動を続けていくのは、ある種の「使命」でしょう。しかしながら、ベガルタンは、こういった活動・コメントに対して、最近は違う考え方をするようになりました。今日は、批判されるのを覚悟で自分なりの意見を述べたいと思います。

ベガルタはチームとして、震災直後から被災地支援を頑張ってきました。シーズン中にもかかわらず、物資の搬入や、ふれあい活動・・・本当に頭が上がりませんでした。ちなみに、被災した甥っ子の小学校に柳沢が来てくれ、一緒にボールを蹴り合ってくれたことは甥っ子のみならず、ベガルタンにとっても「大変ありがたいことだ」と、今でも感謝しています。

そんな震災から、もうすぐ5年の月日が経とうとしています。5年と言えば、生まれた子供が幼稚園に入る歳月です、あっという間かもしれませんが、決して短い月日ではありません。そこで、チームのコメントとして「震災復興の希望の光になるべく・・・」みたいなフレーズは、5年という歳月でもって封印すべきではないのか・・・、あえて繰り返し言うべきことではないのではないか・・・、最近、ベガルタンはこう考えるようになりました。

もちろん、心の中で「震災復興の光に・・・」と思うこと、考えることは当然としても、6年目に突入する機会をもって「もう、オフシャルなコメントとして『希望の光となる』みたいなフレーズは使わなくていい」と思うのです。

チームとして、このような活動は続けるべきだし、「自分たちがプレーすることによって被災地の方々が元気になってくれれば・・・」という思いを心の中で思うのは当然です。しかし、6年目も、7年目も、いやいや10年目も、15年目も、先頭に出てくるフレーズが「被災地復興の希望の光になる・・・シンボルとなる・・・」では、言葉自体の重みが薄れると感じるのは自分だけでしょうか?

よくよく見ると、29名の選手で「大震災の経験者」は10人くらい。良くも悪くも、あと5年もしたら「チームに大震災を体験した奴が殆ど居なくなってしまった・・」となるでしょう。そのような状況となっても「復興の光となるべく・・」を使うのは何気に違和感を個人的に持ってしまうのです。被災地活動をし、それぞれの場所でコメントするにしても、柳沢やリャンなどの経験者がするのと、未経験者がするのとでは、出てくる言葉の重みが違うのは当然であります。

「復興のシンボル・・・」「被災地のチームとして・・・」「被災地の希望の光となるべく・・・」これらのフレーズは、その言葉自体が非常に重く、軽々に使うことには躊躇します。なので、チームも選手も大きく変わりつつある今、敢えてそれらの言葉は胸の中に封印しつつ、もっと、こう、何て言うか、未来志向のフレーズにチェンジしてもいいんじゃあ・・・というのがベガルタンの考えです。

例えば、被災地活動でのコメントで「被災地の希望の光となるべく・・・」と言うのではなく、「この活動が、これから育つ苗木となり、いずれは緑の森となって、多くの人々が集うきっかけになれば・・・」みたいな感じの、未来志向型のコメントへとシフトチェンジした方が、聴いてる人たちの耳にも優しいんじゃないか・・・、最近はマジでそう思っています。

 どんな誠実な言葉も、5年も使い続ければ飽きてきます、人間ですから。チームとして、被災地活動の継続は当然だし、その想いを持ち続けさせる意義として、昨日のような行動を続けるのも、これまた当然でしょう。しかし、震災未経験者に「自分が大震災の復興の希望の光と・・・」と言われたりしたら、どことなくピントがズレていると感じてしまうでしょうな。鍋監督だから、まだ分かるけど、次の、全く震災を経験してない監督だったら、その想いと言葉のズレは更に乖離してくるはずです。

ベガルタンは提案します。

震災から5年経過を契機にし、チームとして、オフシャルな場で被災地に関するコメントをする際は、全体として未来志向にすべきである。

その際、希望の光・復興のシンボルといった、チョット重たい言葉は使わず、誠実でありつつも、明るい未来志向のフレーズで社長・監督・選手たちは統一すべきだ。

今現在でも仮設に住まわれている方々、心の傷が癒されない方々がいることは十分に知っているつもりです。たとえ個人のブログでも、何らかのコメントをする際には、その方々に留意する気遣いも必要でしょう。しかし、鍋監督やチームが繰り返し使う「被災地の希望の光となるべく・・・」というフレーズに対し、「もう、そのフレーズはいいよ・・・」という思いを隠せませんでした。

大震災への想いが例え強くても、あと5年、10年もすれば、絶対に「被災地の希望の光となるべく・・・」というフレーズは使わなくなります。だとしたら、どこかの時点でオフシャル的に使う言葉を変えねばなりません。それがいつか?ベガルタンは今年の3/11から・・・と考えているのです。

言葉は言霊。川崎との復興試合では、互いにプレーや未来志向のコメントで被災地を元気づけたいものです。

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